ことばの使い方ひとつで、ものごとがガラリと変わる。みんなはそう言っているけど、裏を返せばこんな意味なんじゃない? キレイごとは、なし。時事世相に「忍び足、のち急襲」でせまっていきたい。
(「きょうのことば」は、「STIJNews」のワンコーナーです。ここでは過去のバックナンバーを収録しています。)
アウトソーシング=下請け SOHO=内職
横文字に惑わされてはいけない。デジタル時代になっても日本の労働形態下ではこれらの横文字はこの意味で使われる!
「豊かな戦争」の終焉。
高度消費社会は私たちに何をもたらしたのか?
豊かなモノの中で私たちは本当に幸せになっていたのだろうか?
知らぬうちにカネ集めの「戦争」が勃発し、自分以外の他者を排除・攻撃していたのではないか?
この戦争が破壊していったものは、私たちの「心」かもしれない。
でも、そんな戦争は終わろうとしている。
今が戦後の混乱期なのだ。
人を不幸にする自由は存在しない。
高度消費社会は私たちに何をもたらしたのか?
これは某教団によって命を奪われた故坂本堤弁護士が教団幹部との折衝の際に言ったことば。
「私たちには信教の自由があります」という教団幹部の発言にこう返したという。
憲法にはさまざまな「自由」が条文として記述され、私たちの生活の中でそれは保障されている。当然それを妨げる行為は断固として許されない。
しかし現在、「自由」の意味をどこかで履き違えてしまってはいないだろうか?
別に「義務」というものを認識しろ、と言いたいのではない。そこで出てくるのがこのことばである。「他人を不幸にする自由はない」。
この意味から今一度「自由」とは何かをかみしめてみたい。
終わりなき日常を生きられない、宮台真司。
自らの空虚感を他の存在に押し付け、上昇指向性に対するコンプレックスを昇華させている御仁から「終わりなき日常を生きろ」などとは言われてたまるものかと思う。
朝起きて、夜寝るまでの間に起こる一つ「日常」。そこには楽しみもあれば苦しみもある。しかし苦しみの方が多いに違いない。それでも私たちは生きているのだ。
その「生きている」ことを実感してはじめて、私たちの身の回り、すなわち社会を理解することができるのではないか?
南大沢の巨塔から仁王立ちする前に、地に足をつけてモノを創り出す者の苦しみを知れ!
生徒は教師にナイフを向け、
労務担当は教師に銃口を向ける。
彼らには教育よりも自らの儲けと名声しかない。どんな手を使おうとも構わないのである。こういう奴達に教育を語る権利はない。もちろん、射殺を依頼する権利も毛頭ない。
本当に不景気なんでしょうか
不景気だ!ってみんなで連呼。それが今年の流行語。「豊かな戦争」バブル時代の異常事態と比較すると取り返しのつかないことになる。不景気でないのにそう言ってクビ切りすればするほど、本当に不景気になってしまっているのである。この閉塞した風潮を打破することが本当の「景気回復」になるのである。
堺屋太一経済企画庁長官殿、
「低迷」、「さらに悪化」の連呼は逆効果です。
「官と民のことばには隔たりがある。もっと分かりやすいことばで」のつもりで月例経済報告の指標を申し上げているように存じます。
たしかに分かりやすくていいのですが、あまりにも露骨すぎて、かえって萎縮しています。ほら、また貸し渋りが起きました。
1円の差が企業の存亡に関わる中、もっと微妙かつ将来性のあることばを使っていただけないものでしょうか。
未来派の文才、境屋様でしたら簡単にできることです。
商品券を配るとは、
政府の機能を放棄したに同然です。
納めた税金は、生活を豊かにするために使われていると学校で教わりました。
租税を集めて 生活を豊かにする方法=政策 を考え、実行するのが政府であり、それをおこなっているという信頼のもとに税を納めているのです。
景気さえ回復すればいいという短絡的な思考が、各人にカネを渡して
「あとは勝手にモノでも購入してくれ」などという発想につながってはいないでしょうか。
もしこれが企業であれば、株主総会で経営姿勢が問われて糾弾です。
雇用、交通網、高速通信網、教育など、けっして「豊か」ではないもののために税金を使ってほしいと思いますし、
そのような発想ができる政府であってほしいと考えます。
選択肢の多い時代、それが21世紀であること。
「健全な競争社会」、「平等から公平へ」。経済戦略会議の中間報告では、今後の日本の歩むべき道をこう提言している。
この提言は明らかに米国のレーガノミックスを参考にしたと思えるが、決定的に違うのは、「選択肢の差」である。
教育にしても、ビジネスにしても、現在の日本には「選択肢」が少ない。基幹となるルートを一歩でも外れた者には、復活するチャンスも、新境地を開くチャンスもない。学校に1ヶ月登校拒否をしたら戻れない、会社を退職しても次の就職先がない…ライフスタイルや価値観が多様になったにも関わらず、いまだ社会システムそのものが旧態依然とした学歴主義、ムラ社会的集団主義から脱却できていない。
国民全体を一つの方向にまとめ上げることはすでに不可能である。これから求められること、それは「選択肢の多いこと」ではないだろうか。
なんだか最近、すり替えが流行ってますね。
テレビ朝日「ニュースステーション」がダイオキシン汚染「葉っぱ物」を告発したら、「最大数値を大げさに言って世間を混乱させた」とほざきやがる輩のなんと多いことか。日本最大の圧力団体から、政権政党、果ては7桁番号省(ちゃんと協力していますよ)まで。
世論が有害な物質に関心を向かわせないように、「報道が悪い」、「久米宏が悪い」と寄ってたかって主題をすりかえる。
なんか最近、「すり替え」が増えてきたような気がする。フジテレビの「ウォンテッド!」は医療現場の問題はさておき番組構成が攻撃されている。野党だった自由党が政権政党にいつのまにかすり替わっている。こんな例はいくらでも出てくる。
核心に触れたくないからと必死に「すり替え工作」しているけれども、世論はそんなにバカではない。見え透いた嘘はすぐにわかる。嘘をつく時間を問題解決に費やした方がなんと建設的なことか。
