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時代とともに変わる地下道〜川口駅地下道〜
Underpass is changing

 身近に広がる風景を一歩立ち止まって眺めてみると、そこにはさまざまな謎や不思議があります。
 このコーナーでは日常生活の中に広がる風景にスポットを当て、その存在意義について考えてまいります。

 ※ページ内の画像をクリックすると拡大画像が表示できます。

鋳物の街から高層マンションの街へ

川口駅周辺地図  昭和37年(1962年)に公開された映画「キューポラのある街」で全国的に知られるようになった埼玉県川口市。地場産業だった鋳造は都市化の波で昔話になりつつあり、鋳物工場の跡地には高層マンションが次々と建設されています。
 電車の車内から見える川口駅前の高層マンションやビル群は、東京への交通の便利さ、そして鋳造に代わる新たな産業を創造する象徴として林立しています。

地上と対照的な地下道

川口駅地下道1

 地上では現代風の高層マンションが空高くそびえ建ち、駅前のデパートや大型ショッピングセンターに多くの人々が賑わっています。しかし目線を地下に向けてみると、上記画像のような時代を感じさせる地下道が健在です。

 この地下道を歩いていると、独特のほこり臭さと天井から聞こえてくる列車の音に遠く過ぎ去った昔の記憶がよみがえってきます。それは1968年(昭和43年)4月27日から東北新幹線が開業する前の1981年(昭和56年)10月24日まで大宮駅にあった伝説の地下道、「東西自由通路」を連想するものでもあります。
しかし、日中にこの川口駅地下道を往来する人は数えるばかり。ほとんどの人は東西口の往来に地上のペデストリアンデッキを使っています。

 駅前の開発が急速に進むいま、時代から取り残された感がありながらも「有効な地下資源」として活用を続ける地下道を歩きながら、その昔と今を発見することができればと考えます。
 それではしばらくの間、川口駅地下道におつき合いいただければ幸いです。

地下道を歩く 〜現地探訪記〜

川口駅周辺地図2

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 地下道のメインアプローチは駅舎東口1階の階段です。改札を降り立ち右手方向に見えるコンビニエンスストア横の階段を降ります。ペデストリアンデッキができる前はこの階段だけが駅東口の外に出るルートでした。

 ペデストリアンデッキのエスカレーターに隠れるように地下道の入口が見えてきます(画像1)。やはり往来する人は少ないですが間髪を入れずに階段を降りてみます。

 階段の先に見えるものはずらりと並んだ自転車です(画像2)。通勤や通学などで駅を利用する人たちのために自転車駐車場が開設されています。月極め利用のほか一時利用が可能でいずれも有料です。
さて、この地下道が自転車駐車場になったのはつい最近の話で、かつてはこの場所に商店街が連なっていました。地下商店街については後ほど触れてまいります。

 東口駅前階段の左後ろに目を移すと「西口方面」と書かれた看板が見えます。この先を歩いていくと西口へ至る地下道が見えてまいります(画像3)。

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 地下のスペースは自転車駐車場だけでなく、バス乗り場へのアプローチとしても活用されています。画像4は行先別に乗り場番号を案内した看板ですが、「川口税務署へはこちらをご利用下さい」と官公署のアプローチもあわせて表示してあり便利です。

 乗り場番線の数字を見てのとおり、川口駅から市内各所へ向かうバス路線が多数運転されており、乗り場を間違えてバスに乗ってしまうと目的とは異なる場所へ連れて行かれることもあります。最盛期には18番線までの乗り場が用意されていました。

 看板の行先だけが目立っているのは、ダイヤ改正などで路線に変更があるごとにステッカーで上書きしているためです。2001年(平成13年)の埼玉高速鉄道開通によって、市内のバス路線は高速鉄道線とJR各駅を補完するように大規模な変更が行なわれました。

 かつてこの乗り場から出発する「川20 差間折返場」、「川19 新町折返場」といった行先が果てしなく遠い場所のように感じました。現在では東川口駅、戸塚安行駅のそれぞれに行先が変更されていますが、実際に終点まで乗ってみるとやはり距離は長く、川口駅前の高層マンションがそびえる風景とはうって変わり、古き武蔵野を思わせる雑木林や水田が車窓に広がります。

 話を地下道に戻します。画像5は地下自転車駐車場の壁面に掲出された配置図で、この配置図をもとにこのページの「川口駅地下道見取図」を作成してみました。

 続いて西口へ至る地下道を歩いてみましょう。
画像6の先を歩いていくと西口です。距離は約50メーターほど。地下道の真上はJR東北本線が往来しています。

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 東口の階段が見えてきました(画像7)。自転車駐車場が設置されているため、スロープも併設されています。画像8画像9が東口側の地下道出入口。ペデストリアンデッキの階段や橋脚で圧倒されている様子が2枚の画像から理解できます。

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 画像10は東口側から西口側に向かって撮影した地下道の風景。打ちっぱなしのコンクリートに落書きを消した跡、そして天井には経年によって融けた材質が複雑な模様を形づくっています。

 強い湿気を感じるも温度は低く、時おり冷ややかな風が背中を伝わってきます。朝夕は通勤通学客で自転車駐車場を利用する人たちの往来で賑わいますが、昼下がりはご覧のとおり、誰も通りません。

 天井に目を向けてみると、地下道の中間付近だけ構造が異なります(画像11)。他の天井よりも高く、格子状にデザインされているのが特徴です。真上には京浜東北線のプラットホームがあります。

 なぜこの部分だけ天井が高いのか? プラットホームの基礎との関係、あるいはホームへの出入りに使われていた…さまざまな謎が頭をよぎります。

 最後にもう一つの謎を。自転車駐車場の南東端に存在する階段です(画像12)。階段の両端には掃除道具などの備品置場になっており、その先はシャッターで閉鎖されています。果たして地上のどこへ出ることができたのでしょうか。

時を経て拡充される「パッチワーク地下道」

それは駅構内の乗換通路から始まった

 川口駅の地下道はどのような変化を遂げてきたのでしょうか。時間をさかのぼってみると当初は駅構内の乗換通路から始まっています。
 見取図の左側、画像6・10・11部分はかつて駅改札内にあり、東西口改札から駅プラットホームへ向かう通路として使用されていました。さきに画像11の説明で「ホームの出入りに使われていた」と書いたことは事実で、格子状の天井の先にあるのはプラットホームです。

 かつてこの格子状天井の両側にプラットホームへの階段があったと思われますが、現在は封鎖されて地下道の壁になっており、階段の面影を残すものはありません。

 乗換通路として供用されていた時期については追って調べてまいりますが、駅舎が民衆駅として改築された1968年(昭和43年)9月20日頃まで使用されていたのではないかと推測されます。

県下初の地下商店街

 1967年(昭和42年)1月に入り、地域活性化と新しい都市計画を目的とした駅前広場の整備が始まります。川口駅前には県道川口上尾線(通称・産業道路)や国道122号線(俗称・ワンツーツー)といった基幹道路が近接しているため、モータリゼーション化が進むにつれて市街地への自動車の流入が激しくなり、慢性的な交通渋滞、自動車駐車場の不足が多発していました。

 駐車場不足を解消するために考え出されたのが「地下の有効活用」です。東口駅前地下に駐車場を整備するとともに、歩行者の交通を保護するため駅やバスプールからの乗換地下通路が計画されました。あわせて地下通路の往来者への利便をはかるため商店街がつくられました。

 地下駐車場・地下商店街の供用開始は1970年(昭和45年)8月11日。夏休みを使って大阪万国博へ出かける人々が大移動をしていた頃、県下初の地下商店街はオープンしました。

 関連資料によれば、地下商店街は飲食店、服飾店、生花店など30店舗が軒を連ねていたと記されています。筆者は画像2の階段を降りて右側に岩渕書店、化粧品店、釣具店、旅行代理店の川口トラベルビューロー、国際興業バスの案内所があり、左側にお茶・海苔販売店、その先にはバス乗り場への階段があったと記憶しています。
 川口そごうがオープンする以前、地下商店街の旅行代理店がユースホステルの会員登録所になっており、そこで会員継続の手続きをしたことがあります。

 現在は国際興業バスの案内所だけが地下商店街の面影を残しています。

駅前再整備で商店街閉鎖

 1971年(昭和46年)には駅前地下道を延長する計画が打ち出され、本町・栄町方面への往来と、西口方面への往来が地下道一本で可能になりました。

 時は流れて1992年(平成4年)、駅前広場を再整備する「第2次整備計画」が施行されると地下道の使われ方が変わっていきます。駅から市街地への往来には拡充が容易な地上のペデストリアンデッキを使い、地下道は駅前の自転車駐車場不足を解消するために自転車置場として転用されることになりました。

 1992年(平成4年)6月30日、地下商店街は21年の歴史に幕を閉じました。
 地下商店街の閉鎖後、撤去された店舗の跡地は自転車置場と変わり現在に至っています。

小さく変化する地下道

 駅乗降客の往来がペデストリアンデッキに移り、駅前に高層ビルが次々と建設される中、駅前地下道もわずかながらも変化を続けています。

 2005年(平成17年)8月21日、川口産業会館跡地にオープンした商業ビル「かわぐちキャスティ」(俗称・太郎焼ビル。かつて産業会館ビルの隣にあった名物の今川焼店が移転し、地上1階と3階に販売店舗を持つ。1階と3階であんこの甘さが異なる)のオープンにあわせ、ビルの地下1階と駅前地下道が接続されました。これはビル地下1階の駐車場から駅への往来を可能にするものでした。

むすび

 地方都市では地下に通路や商業施設を作ることが画期的な都市開発であると考えられていた時代があります。しかしメンテナンスの難しさ、地権、地盤沈下、防災・防犯上の問題等が取りざたされ、思うように開発が進まなかった例が数多くあります。地上の開発を進める過程で閉鎖されたり埋め戻された地下施設も存在します。

 一方で、駅構内の乗換通路から始まった地下道が新たに作られた商店街と結びつく。いったんは閉鎖された商店街の跡地を駐車場に転用する。そして新しい商業ビルと接続する。一度作り上げた地下の空間を用途を変えながら存在しつづけ、小さな拡充をしていく地下施設もあります。今回取り上げた川口駅地下道はその一例であるといえます。

 服飾のパッチワークのように材料をつなぎ合わせて新たなものを生み出された施設の、「縫い目」にあたる部分に着目してみると、街のあゆみを見出すことができるでしょう。

参考資料

・「目で見る川口・鳩ヶ谷・蕨の100年」 郷土出版社
・「川口大百科事典」 川口大百科事典刊行会 1999 P291
・「川口市昭和・平成年表稿」 川口市昭和・平成年表稿編集委員会 2003
・「川口市近現代年表稿」 川口市史編さん室 1980
川口大事典2001.1「川口駅ができるまで」
川口市役所・川口駅周辺市街地整備構想
・写真撮影/現地調査:2005年5月、2006年4月

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