My Trip/ 遠野での出会い−1992-6 / 92.3記録 04.08改版 | |||||||||||||
遠野での出会い−1992[その6] | |||||||||||||
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この文章は、1992年春に私が遠野方面を旅したときの記録です。 6・1992年3月31日
〜帰路の風景〜
午前7時、再びあんべ光俊の「遠野物語」で目が覚める。長いようで短かった3日間、もう数日いたくなるが、予算が底をつきそうだ。やはり今日帰らなければならない。 外は昨日の雨を残すことなく晴れ上がっていた。周囲の山に霧が立ち込めて幻を見ているかのような光景が眼に焼きつく。田んぼのあぜ道にふきのとうを3個みつけた。春も近い。 今日、YHを出るのはU氏、I氏、そしてT氏という男性。結局、廃校を共にした人はすべてYHを去ることになる。 7時50分、私達4人はYHの前の道を重い荷物を背負って歩く。複雑な気分になる一瞬だ。YHから直線にして3、400メートル過ぎたところに生えている、通称「別れの一本杉」が近づくと「いってらっしゃい、また来いよ」とペアレントや同宿者が帰る人に呼びかけるのがYHの慣わしで、その声を聞くといますぐ戻りたいと思ってしまうのだが、その気持ちをぐっと抑える。 似田貝バス停に着いてすぐ、大出からの県交通バスがやって来た。車内は立席も出ている。車は昨日走った国道を飛ばしてゆく。左カーブで坂を登りつめると車窓右手に高台から眺めた盆地の風景が広がる。私はここの風景がとても好きだ。だが、車窓左手を見ると、粘土を採集するために山を切り崩して、赤茶色の山肌がむき出しになっている。
約20分後、煉瓦造りの遠野駅に到着した。駅前交番のカッパが朝日に当たって輝いている。
自動券売機がカード専用だったため、出札口で自動券売機用のオレンジカードを買うついでに「18きっぷ」に日付を入れてもらうと、駅員は3月30日という日付印を押した。 8時18分、急行「陸中2号」は新型のディーゼルカーを3両連ね、エンジンを響かせながらホームに滑り込んで来た。ドアーが開いて車内を見回す。リクライニングシートが並んでいるが満席。最後部のデッキに荷物を置くと列車はエンジンを最大に響かせて遠野を離れていく。 さすがは急行、小さな駅を速度を落とすことなく通過していく。最後部のデッキには大きな窓が付いており、遠ざかってゆく遠野の風景と線路をじっと見る。もう、ここまで来たら戻れない。列車はカーブを曲がり坂道をエンジンをうならせながら走ってゆく。
「こう速いとあまりにも情緒がない」とU氏。 遠野を出て40分後、新花巻に到着。この間はノンストップ。非常に速い。新花巻で乗客の9割が降りる。新幹線に乗り継ぐのだ。ここで新幹線に乗れば東京には昼過ぎに着くが私とU氏は『18きっぷ』。これから普通列車を何本も乗り継いで帰る。
花巻に到着。I氏とT氏はこのまま盛岡まで行き、奥入瀬YHへ向かうという。
「やっぱりこういうときは走らなきゃ」というU氏の言葉ど同時に私たちは3番線ホームを列車に追いつくがごとく走る。何だか、芝居を演じているような雰囲気になっているのだが、世間の眼は冷たく、周りの人の視線が私を突き刺した。 〜普通列車小噺〜
●ビデオカメラ
●車窓
●発車音楽 なお、東京地区などでも聞けるようになった発車音楽の元祖はこの仙台である。
●豊原事件
郡山からおばちゃんが乗ってきた。そのおばちゃんは私たちが座るボックスに腰をおろした。乗っている間、特に話をせず、黙ってただ眠っていた。
「あれ、新白河過ぎちゃった!」
おばちゃんに列車を教えると、寝過ごしたことを笑っていた。笑ってはいけないが思わず私も笑いが走る。 〜旅の終わり〜
列車が利根川の鉄橋を渡り埼玉県に入る。車内も立席が出てきた。東大宮、土呂など、日頃耳にする駅が近づくとこの旅も終わりに近づく。
「アー、いやだねぇ、また遠野へ帰りたくなっちゃったよ」 しかし、あの青い電車を見ると無事に戻ってこられたことを実感する。旅の終わりに見る京浜東北線の電車ほど印象的なものはない。
街にネオンサインの輝く19時36分、東北本線の普通列車は定刻に浦和に到着した。 自宅の最寄り駅に降り立つと、改札口の工事が始まっていた。自動改札になるのである。遠野も変われば私の周辺も変わりつつある。変化はひとつひとつ起きているのだと感じつつ、暖かくなった夜の道を歩いていった。
たったいま、私の横を下りの寝台特急が通過していった。いま、この列車から旅が始まる人もいれば、私のように旅を終える人もいる。あの寝台列車の乗客になるのはいつになるだろうか。 1992年4月 自宅にて
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