3・1992年3月29日
〜山崎金勢様の風景〜
午前7時、かつて東北地方でヒットしたあんべ光俊(飛行船)の『遠野物語』で目が覚める。朝食の時間である。これもまたボリュームのある朝食でその上美味い。トーストも食べられる限り食べられる。
食後、ぜいたくにも朝からジェットバスに入る。朝のすがすがしい風が濡れた髪に流れる、などと柄にもないクサい事をひとり言ってみる。
フロントへ歩いていくと、U氏が一緒に市内を回らないかと誘いの声が。私も一人で回るところだったのでお誘いに迷うことなく乗った。それにI氏、T氏もおりましたし…。
YHを9時半に出発。春特有の柔らかい日よりで自転車で回るには絶好の天気だ。伝承園の曲がり家を左に眺め、小高い山もついでに眺める。小烏瀬川(こがらせがわ)の橋を渡り山ふもとの道を風を切って走る。
『山崎金勢入口』の看板に従って曲がると、自転車では登れないような山道に入る。
ここで解説。金勢様は日本各地にある風習で、男性のシンボルを木彫りや石彫りにして祀るご神体のこと。これはお堂の中だけでなく、民家や風呂場にも置くことがある。この金勢様を女性がさすると安産、縁結び、婦人病などに効くという。男性には特に御利益はなく、自分のものと比べて圧倒するだけである。
話を戻し、ここは金勢様への山道。ついに自転車を引いて登ることとなった。
「結構きついね」
「このきつさを乗り越えてこそ、子供が授かるのでは?」と好き勝手なことを言いながら自転車を引いて登る。
10分近く自転車を引いただろうか。ついに金勢様のあるお堂へたどり着く。周囲には雪もちらほら残る。地元のおばちゃんがすでにお参りをお堂の中で済ませていたので、入れるかと聞いてみると「どうぞどうぞ」と。
賽銭を投げ、「失礼します」とお堂の中に恐縮しながら入る。すると目の前には、「これは見事」の他に言葉が出ないくらい立派な金勢様がでんと坐っている。私は日ごろから持っているメジャーで高さを測ってみた。150センチ。立派さが分かる寸法である。ちなみにこの金勢様、彫刻でこの形状にしたわけではないとか。
ここで記念撮影。ただただ圧倒するだけである。
〜廃校の風景〜
近頃、遠野にも地域開発が進み、現在において柳田国男の世界がそのまま残っている場所を見ることは不可能になってしまった。当然である。一旅行人としては変化してもらいたくないと思うところだ、地元の人にとっては3、40年前の生活を強いられるのは苦痛なのである。旅をするものはそのような現地に住む人たちのことも考えなければならない。
しかし、30年前、いや、それ以前の世界が今でも残っているとすれば、これは非常に貴重でもあり、幸運でもある。時の流れが一瞬止まったような世界。この遠野にはあった。
昨年、水車小屋を見つけた帰りに見つけた廃校舎の出す雰囲気に強く心を惹かれた私は、もう一度その廃校舎を調査してみたいと思った。
山崎金勢様と、200年の歴史を誇る北川家のオシラ様を見たそのついでに、
「この前私が行った廃校を見に行きませんか。多分気に入ってもらえますよ」
そう言ってみた。私はこの廃校を案内したかった。時の流れが止まった世界を旅で知り合った人たちと一緒に見たかったのだ。
オシラ様のある北川家より自転車で3分もしないところ、JRバス『丸古立』停留所の目の前にその廃校舎は存在する。
『遠野市立土淵小学校山口分校』と言われたこの校舎は、木造瓦ぶきの平屋建ての、古い日本映画に出てきそうな校舎そのままだ。私は幼年期に兄弟の通う小学校の廊下を親と一緒に歩いたことがある。その記憶が僅かながら残っているためか、なぜか言い表しようのない懐かしさが胸を突く。決して校庭も校舎も広くないが、「これぞ小学校の原形」といえるような造りである。
入り口の木戸を引いてみると何も苦労することなく扉は開いた。部屋の中は特にカビ臭くないが、やはり汚れとホコリが目立つ。土足のまま廊下を渡る。
入口近くに宿直室らしい、障子張り戸の内側にガスコンロ、食器戸棚を並べた約6畳ほどの部屋がある。
ここで私は少し背筋に寒気を感じた。この部屋の恐ろしいのは、食器戸棚の食器がチリひとつなく、整然としまってあること、いたるところにカップラーメンのフォームスチレンカップが散乱していること、流しの横に醤油の一升瓶が中身の入ったまま放置されていること、ガスこんろやポットが整然としていること、つい最近まで人がいたような空気が流れていること…。昨日まで誰かいたのではないかという人気(ひとけ)を感じる(註:実は、地元住民の集会所としてこの廃校舎は利用されていたのだ)。
その中を私達は廃校内の物品を調査し始める。
『土淵小百周年記念式典』と印刷された封筒を見つける。そこには昭和52年とある。封筒の裏には遠野発の列車の時刻とバス時刻が印刷されている。現在に比べバスの本数が多かったり、急行の本数が多かったりと様々な発見がある。
宿直室の隣は教室。扉の上には遠野市の地形図に色が塗られて貼られている。天井にはストーブの煙突が吊るしてある。この部屋だけは机と椅子があり廃校寸前まで授業を行っていたような空気が流れる。机は2人ひと組の昔ながらのオール木製。椅子も同様。座ってみるとやけに低い。低学年用と思われる。しばらく座って耳を澄ますと算数の授業がどこからとなく聞こえてきた…と思ったらU氏が木の棒を持って授業をしている真似をしていたのだ。
さらに校舎を奥へと進む。教室の隣は倉庫になっていた。書棚が8本ほど置いてあったり、移動式の黒板などが置いてある。『遠野民話のつどい』という木製の手造り看板も目に留まる。
その隣の区画も倉庫になっていたが、床が抜けそうに反っていて怖い。
この学校、分校ではあるが廊下が非常に長く、天井の造り、床下の造りに特徴がある。廊下中央には白線がかすれて見える。子供が騒ぎながら廊下を走っていく声がどこからともなく聞こえてきそうだ。
ちょうど廊下に転がっていたやかんを使って、かつての即席ラーメン「ハウスラーメン3時3分」のコマーシャルを演じてみよう、と女性陣に頼むが「覚えていない」という。
「ホラ、あったでしょう。制服を着ている女性(工藤有貴)が出ていたコマーシャルで『♪お湯をかける少女』ってやかんを持ちながら廊下を走るのが…」
「何となく覚えているけど誰か見本でやってみせてよ」
…ということで、私は『お湯をかける少女』の実演を頼まれた。一気に美しい廊下をやかんを持って走る。周囲に気持ち悪さが込みあげる。
「なんか違うな…」
気を取り直す。
「ヨーイ、ハイッ!」
映画監督気取りの私らとやかんを持って『少女』を演じたのはT氏であった。先ほどの私の実演とはうって変わって、すがすがしい空気が流れていくような気がした。
懐かしいコマーシャルを思い出したところで、倉庫の隣にある講堂らしき部屋へと向かう。
この講堂らしき部屋には、体育用のマットと跳び箱が荒らされることなく置いてあった。しかし跳び箱の一番上の白いマットの部分には漫画『ちびまる子ちゃん』の登場人物、丸尾君が落書きされていたのには参った。誰でも入れるためにいたずらをする人もいるのだろう。この跳び箱で記念撮影となる。跳躍の連続写真や、箱に短い私の足を掛けて撮った姿が哀しい。
講堂をさらに突き進むと、職員室らしき部屋が存在する。そこには昔懐かしい青コピー機、レコードプレイヤー、足のついたテレビ、そして謄写版の道具、すなわちガリ版刷りの道具が並んでいる。本当にこの空間だけ時間が止まっている、
「そうそうこれ、使ったことあるわ」とI氏。
「今、ガリ版のロウ引きの紙ってないんだってさ」
一台の印刷機を眺めながら話がはずむ。そのガリ版のとなりには刷った実物が置いてあった。
『山口分校だより』という学校便りには、
家庭訪問の季節です。
とか、
体重測定では下が二五キロ、上は六〇キロありました…
カゼの欠席が増えています…
といった当時の学校の様子がよくわかるような記事が並んである。この『分校だより』は昭和52年から54年までの便り十数枚が黒い綴り紐でくくられていた。職員室には、牛乳配達納品書が50枚ほど束になってこれも綴り紐で綴じられていた。納品本数34本。教師と生徒を含めた人数である。分校で34本と言えば相当な数であり、当時の遠野に住む小学生の多さに驚く。
当時の分校で行われた運動会の8ミリ映画フィルムの切れ端を私は見つけた。日に透かして見てみると、開催宣誓をしている様子や地元住民が応援している様子がコマを追うごとに見えてきた。ここに写っている生徒や人々は今どこに行ってしまったのであろうか…。
かつて、生徒たちの笑い声、話し声、泣き声、教師の声がこの校舎を包んで決して消えることはなかった。しかし、相次ぐ過疎化により、遠野市内の分校は全て姿を消した。この山口地区も例外ではなかった。ほんの10年前の昭和56年頃に生徒や教師たちの声は途絶えた。今では風の音だけがこの校舎を包んでいる。
けれども、その場所にじっとたたずんでみればかすかに何かが聞こえてくる。楽しいような怖いような、でも懐かしい『何か』が…。それは自分の心の記憶の中から聞こえてくるものなのかもしれない。
〜廃校の校庭〜
山口分校の校庭の土を踏みしめた。砂の多い校庭には花壇の跡と思える腐った木の破片が、そして校庭の端には登り棒、ブランコ、鉄棒が荒らされることなく残っていた。
I氏がブランコを見つけて昔を懐かしむようにブランコをこぎ始めた。私も昔を思い出してこぎ始めた。『ギッ、ギッ』という音が周囲の空気を包んだ。勢いよくこぎ出すとブランコの揺れとは違う揺れを感じた。あわてて降りてみると、ブランコの土台付近の土が痩せてしまってひびが入っていたのである。土台部分を眺めて他の方にこいでもらうと土台が少々揺れていた。これは危ない。
「ブランコに乗りながら靴を飛ばしてみたりしたっけ」
その言葉に、10年前を思い出した。そういえば私はかつて、あまりこのような遊びをしなかった。なのに、ブランコに揺られてみると頭の奥から昔の記憶が甦ってくる。何だかこの廃校舎でかつての私をもう一度見直すことができるような気がしてきた。
鉄棒でぶら下がって写真を撮ろうということになった。鉄棒といえば逆上がりを苦労してやったことが懐かしい。昔は胸の位置に棒があった一番低い鉄棒は今では私の腹の下になっていた。
錆が浮き立っている鉄棒にぶら下がるとは言っても、逆さになって頭を地面につけるがごとくぶら下がるのである。
「そのくらい簡単簡単。昼メシ前」
軽い気持ちで考えていた私だったが、いざ実際に棒につかまって回ろうとすると恐怖感が先に走って、結局、
「やっぱりやめた」とあきらめる。
その時I氏は勇敢に回ってみせたが低い鉄棒のためにうまく回れず尻もちをついた。しかしこれだけでは終わらなかった。回るときに落とした眼鏡がしりもちをついた所にあったのだ。予測すべき事態が実際に起きてしまったのである。金具が曲がってしまい、そのままでは掛けられなくなってしまった。
これはまずいことしたなぁ、と思いつつも、曲がってしまった眼鏡を見ると笑いがこみ上げてしまうのはなぜだろうか。