〜はじめに〜
インターネットのサーチエンジンで「看板」というキーワードを検索すると、この手のページが何件か出てくる。その中身を見ると、昔懐かしい琺瑯引きの看板の写真や、その撮影地などが細かに記載されている。郷愁、旅愁、デザイン…街中の風景に溶け込む一枚の看板にはひとことでは言い表せない魅力がある。だからこそ、その魅力を伝えるために多くのwebが開設されていると考える。
しかし、同じ看板でも日の目を見ない、というよりも迷惑がられるものも多い。住宅地の駐車場や、塀、交差点の角地などに何枚も張られる「車でお金」、「即金支払OK」、「連帯保証人なし」などの看板だ。これらは知らぬ間に増殖しつづけ、張る場所がなければ、角材に看板をくくり付けてまでも設置される。野外広告条例という「印篭」でそれらの看板が撤去されても増殖は止まることを知らない。
この郷愁とも、旅愁とも無縁なこれらの看板に私は不思議と興味を覚えた。私はこれを、その材質的特徴から「TOTAN(トタン)」と呼び、広告看板の変遷と現在における役割について考察してみたいと思う。
〜看板変遷論〜
ホーロー | 看板の材質 | トタン(亜鉛引き鉄板) |
食品から農機具まで多彩なアイテム | 主たる広告内容 | 金融系がほとんど |
重い | 看板重量 | 軽い |
鉄道沿線、国道、街道の商店・民家壁面 | 主たる設置場所 | 住宅地、路地の民家ブロック塀、駐車場フェンス |
遠方から見える場所 | 設置位置 | 近くから見える場所 |
小型〜大型 | 看板の大きさ | 小型〜中型 |
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ホーロー看板(以下琺瑯看板)とこれから取り上げる"TOTAN"について比較してみたのが上の表だ。この表を眺めると、時代の変化にともなって広告看板の形態がどう変化してきたのかを垣間見ることができる。広告は決して無造作には作られない。必ず見る者の行動、心理を考えて作られることがわかる。
まず、「主たる広告内容」を見てみよう。琺瑯看板にはあらゆるメーカーのいろいろな製品が描かれている。大手メーカー製品も多い。
琺瑯看板による野外広告が全盛期を迎えたのは昭和初期から昭和30年代。テレビもなく、新聞、ラジオ広告が主流の時代だ。商品のイメージを訴えることに適していたのは、紛れもなく野外広告であった。野外広告は新聞広告に並ぶ視覚広告として位置づけられていたに違いない。当時唯一、カラーの使える広告であったからだ。大手メーカーの広告主はこぞって自社製品の琺瑯看板を作っては全国いたるところに張りつけていった。
設置場所についても考えてみよう。鉄道沿線が多いのは、当時の主要交通手段が鉄道だったことが考えられる。駅構内、踏切近くの民家の壁に看板を設置し、発車してまだゆっくりしたスピードで走り出す列車から見やすいようにしている。駅から離れた場所には、比較的大型の看板を屋根の軒下に置き、彩度の高い色をつけて、加速した列車からも目につくようになっている。いずれにしても、蒸気機関車の牽く客車やディーゼルカーと速度の遅い列車がほとんどだった。現在のように時速130キロの猛スピードで走る特急列車からこれらの看板を見ることは困難に近い。
看板の貼付場所が鉄道沿線なのは、当時の物資の流通状態によるところが大きい。惣菜以外の買い物をする際「大きな街の店じゃないと売っていない」ことがほとんどであった。イトーヨーカ堂、ダイエー、ジャスコなどの大規模小売店舗が登場する前の話である。列車に乗って大きな街の商店や百貨店で買い物をする、という買い物行動は日常だった。看板は旅行者に向けて広告しているのではなく、毎日のようにその路線を利用する人々に向けられる。買い物へ行こうと列車に乗り、木枠の窓から景色を眺めていて見える一枚の看板。この何気ないことの繰り返しが潜在意識に焼き付き、購買意欲を引き出すという大きな効果をもたらしていった。広告のリピート効果だ。
その後の高度経済成長によるモータリゼーション化に伴い、広告看板の主要設置位置は国道、県道の沿道になった。さらに経済状態も良好になり、日用雑貨は小さな街の商店でも買えるようになった頃には、商品広告の主流はテレビCMに移っていた。同時に野外広告のスタイルも変わらざるを得なくなった。より地域住民を対象にした広告戦略として看板が使われるようになった。
この戦略を使ったのがあの大塚グループである。他の大手メーカーがテレビCMを打ち出した昭和40年代後半、大塚グループは琺瑯看板による広告を展開したのだ。「ハイアース」、「アース渦巻」、「ボンカレー」、「オロナミンC」、「ごきぶりホイホイ」…これらはもうおなじみだが、写真画像、有名芸能人の起用など、文字デザインと商品イラストが中心だった琺瑯看板の世界に新しい表現手法をこれらは吹き込んだ。
大塚グループ系列の看板は鉄道沿線ではあまり見かけない。また設置位置も民家のブロック塀など人間の目線と同じかそれより下になっている。訴求対象(ターゲット)を地域住民に限定したからであり、歩いて買い物に行く人、クルマや自転車に乗って買い物に行く人が繰り返し見える場所を選んで設置されているのだ。
この大塚グループ系広告看板戦略はその後の看板広告に大きな影響を与えた。ハウス食品なども、あらゆるビルの屋上に野外広告スペースを設置したり、商店の軒下にある「塩」、「たばこ」と書かれた看板の下に小さく「ククレカレー」、「グラノラバー」などの商品名を載せる手法を展開した。しかし、これらの看板広告戦略も、テレビCMのスポット枠拡大により下火になっていった。同時に重量の大きい琺瑯に代わり、亜鉛鉄板が看板の材質として使われるようになっていった。こうしてTOTANが生まれたのである。こう考えると、大塚グループ系看板が「最後の琺瑯看板」であったのかもしれない。
大手メーカーが看板による広告から撤退すると、今度は金融業界が看板に参入する。金融業界といってもそのほとんどは消費者金融、すなわちサラ金である。武富士やプロミスが株式上場する前は、サラ金というと非常に暗いイメージがあった。当時の企業規模もまだ小さく、CMも昼間やゴールデンタイムの放送は規制されていたため、ローコストの地道な広告が求められた。
ティッシュペーパーにチラシを入れて配布する広告方法と並んで、看板による広告を行ったのである。これらは大塚グループ系広告看板戦略をさらに強化し、「スペースがあれば設置する」を主軸に置いているようだ。路地裏のブロック塀、駐車場フェンスなどを中心に設置を進めた。軽くて安い亜鉛鉄板の看板は大量に生産され、張りつけられ、瞬く間に増加し現在でも増え続けている。
広告看板の変遷を改めてみると、日本の経済構造の変化が見えてくるように思える。農機具や脱穀機用モーター、井戸水ポンプなどを広告していた第一次産業時代、医薬、食品など生産物そのものを広告する第二次産業時代、そして現在は貸し金サービスを広告する第三次産業時代である。
平成大不況といわれる中、経済構造の改革が迫られているいま、新たな産業形態を模索しなければならないという。ひょっとすると、今後TOTANを使って広告する企業の中から、産業構造に大きな変革を与えるものが出てくるのではないだろうか。
いま、TOTANからは目が離せない。