生活・漂う風景 / 05.05公開 05.06更新 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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新 生活・漂う風景時の止まった地下街〜大宮・大一ビル〜
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実のところ「大一ビル」は、中央部分から旧中山道側の半分の建物を指し、左半分は地元商店5店が所有している個々のビルの集合体で、それぞれ別の名称がついています。
外壁部分は一体化されて一見ひとつのビルを形成していますが、隣接する区画へ移動することはできません。また4階建てに見えて実は3階建てになっている箇所もあります(写真A、B)。
その風貌と構造から「大宮の九龍城」と言う人もいるとか。
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写真1は中山道とのスクランブル交差点からのアングル。1階は食器店、書店、メガネ店、携帯電話販売店が並んでいます。2階には金融会社のATM、3階は料理学校「国際クッキングスクール」があります(2002年2月当時)。
1990年頃は4〜5階に家具の宝船がテナントに入っていました。
なお2005年現在、3階〜5階には漫画喫茶マンボーの店舗があります。
写真2は駅側4階建て部分にある店舗のひとつ。万年筆専門店はなかなか貴重な存在です。お店のインテリアもさることながら、店内にある「パイロットエリートS」という看板がごく当たり前のように掲げてあり全く違和感を感じないところがとても印象深いです。「パイロットエリートS」は1969年、大橋巨泉の「はっぱふみふみ」で一躍有名になりました。
なお現在、この万年筆店は閉店し別店舗になっています。
写真3はビル中心部にある案内板です。案内板を見るとなんと6階までフロアのあることが分かります。コカコーラ看板の真下にある展望台風の建物あたりが6階になっています。6階はビルの管理事務所ですが、かつては「大宮ロイヤル学園」と呼ばれる施設が入っていました。
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写真4はビル管理事務所の郵便受箱。横に上層階へ行くエレベーターがあります。それではさっそくエレベーターに乗ってみましょう。
写真5はエレベーター内の様子。階数ボタンを見ると地下1階〜地上6階まで行くことができます。ゴンドラ内には緋色のパンチカーペットが貼られていますが、ここにも案内板が。地下1階にハナマタレコードと書かれてはいても現在はエレベーターで地下の店舗に行くことはできず、CD店舗内にある階段を降りる必要があります。
ちなみにエレベーターの乗り心地は、小刻みな微動と停止時のドア開放のタイミングのずれにささやかなスリルを感じます。
写真6はエレベーター横の階段です。2階の金融会社、3階の料理学校へ向かうときは階段を使うと便利でしょう。漫画喫茶のない頃ですので、4階以降の照明は消されています。
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かつて家具の宝船があった4階部分の様子が写真7です。シャッターが固く閉ざされています。このシャッターの向こうに何があるのだろう…
――いまの私には何も見えないけれど
この部屋のすべてがやさしい思い出で満ち溢れているけれど心がうずく――
4階以降の階段は照明が消え、立ち入りがはばかれる状態にあり上層階に向かうことができません。6階へはエレベーターで向かうことになりますが、時間の関係もあり今回は見送りました。一度でいいから6階部分に赴いてみたいところです。
さて今度は地下部分へ行ってみましょう。写真8は地下へ向かう階段です。
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大一ビルの地下街へのアプローチ方法は3つあります。
ひとつ目は写真8のビル中心部にある階段を降りるルート。ふたつ目はは旧中山道スクランブル交差点そばの「大門地下道」と呼ばれる地下道の入口(写真9)の階段を降りて中央デパート側と反対方向(駅東口方向)に歩くルート、そして後述する謎の階段です。
10分ほど通りを往来する人たちの動きを眺めていたのですが、この地下道を利用する人はひとりもいませんでした。おそらく地下道入口に掲げられている看板がビル地下1階の店舗へ向かうように案内されているからでしょうか。
しかし存在自体が忘れ去られれば忘れ去られるほど、この地下道に足を踏み入れたくなります。
階段を降りると100メートルほどの長い通路が中央デパート方向へと延びています。蛍光灯による照明は完備しており、地下道としての体は為しています。階段を降りたすぐそばにはメガネ店の別店舗があります。
地下道を中央デパートと逆方向へ歩いてみます。こちらは照明がほとんどついていない上、かび臭さとすえた臭いが鼻を突きます。
写真10、写真Cがその様子です。フラッシュを焚いての撮影で明るくなっていますが、実際はかなり暗いです。商店があったであろう場所はすべてシャッターが閉まっています。一区画のシャッターには「レインボー」の文字が見え、その奥は老舗うなぎ店の地下厨房部分があります。
さらに駅東口方向へ歩いていくと「自由軒」の文字が。営業時は中華料理店だったのか、食堂だったのか、あるいは喫茶店だったのか、想像がかき立てられます。
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哀しいかな、経年による痛みは隠せないもので、天井部分を見るとコンクリートの成分が雨水などで流れ出してツララ状に固化しています(写真12)。塗装もところどころ剥がれ落ちているのも分かります。
店舗反対側の通路壁面には緑色の木製ボードが打ち付けられ、一部にはポスターが掲示されています。この木製ボードは一部破損しており、破損した部分を観察してみると何やら看板らしきものが見えます。
今となっては殺風景な通路の壁も、かつてはアクリル製の広告看板が連なっていたことが理解できます(写真D)。看板左上には「山ちゃんのお漬物」の文字が見えます。これは後述する角井ビルに事務所を構えていた山一食品工業の広告です。
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地下道の末端はコンクリートの壁になっていました。ふと右に目をやると幅の狭い階段があります(写真13)。
これが地下道の3つ目のアプローチ、「ビル横の謎の階段」です。この階段をひとつの踊り場を経て駆け上がると、野村證券ビル横の地上に出られます。
写真13で階段の先に見える建物は大宮高島屋です。
この階段に背を向けた側にシャッターで閉鎖されている部分があり、かつては「すみれ小路」に並行するように地下の店舗を経てすずらん通り側(角井ビル)に抜けられました。
隣接した区画が独立しているこのビルにとって唯一平行移動できる場所、それがこの地下1階のスペースです。
現地訪問ののち、この大一ビルがいつ頃からこの街にあるのか、オープン当初はどんな設備があったのかを知りたくなりました。
川口市上青木のSKIPシティーにある「映像公開ライブラリー」に、大一ビルオープンに関するニュース映像が存在するとの情報を受け、確認のため赴いてみました。
ニュース映像を視聴し、映像から分かった情報と当時の新聞記事から概要を以下にまとめます。
この一帯のビルは総称して「新共栄ビル」といい、大一ビルはその一部分です。
建設のきっかけになったのは1960年(昭和35年)7月13日に発生した付近一帯の火災で、これを機に商店主の間で防火ビル建設と大宮駅東口の商業活性化に向けた動きが起こりました。
1961年(昭和36年)5月に着工し、オープンは1962年(昭和37年)10月4日。1961年7月に西口桜木町に商工会館が完成した翌年のできごとです。
現存する市内最古の中央デパートや、大宮ステーションビル(OSB、現・LUMINE1)がオープンするのはまだ先の話で、現在高島屋が建っている場所に大宮郵便局があった頃です。この大一デパートこそが市内で最初にできたデパートであり、市内で最初に消えたデパートなのです。
ビルは地下1階地上6階建ての「大一デパート」、地下1階地上3階と地下1階地上4階のビルが合同した「五店ブロック」、さらに地下1階地上4階建ての「角井ビル」と大まかに3つに分かれています。大一ビル、五店ブロックは駅前通りに面し、角井ビルはすずらん通りに面して建てられました。
すずらん通り側 | 駅前大通り側 | ||||||
角井ビル | 五店ブロック | 大一デパート | |||||
R | 展望台 | ||||||
6F | 事務所 | ||||||
5F | IT店 | YM店 | 中華彩館 | ||||
4F | 住宅 | YS店 | 展望大食堂 | ||||
3F | 住宅 | YK店 | AD店 | 楽器、電気製品、レコード、金物、コンタクトレンズ検眼室 | |||
2F | デパート | 金属、時計、眼鏡、書籍、文房具、模型 | |||||
1F | みやげ物・食料品 | 洋品、アクセサリー、瀬戸物、和洋菓子 | |||||
B1F | 総合食品 | 総合食品 |
上のフロア図を見ながらオープン当時の様子をたどってみましょう。
正面玄関はビル中心部の1階にありました。ちょうど写真3の案内板がある付近です。
エントランスには館内で取り扱っている商品類の案内板が掲げられ、その内容を読み取ってみると…
書籍 レコード 電気器具 アクセサリー セトモノ
婦人服 大食堂 中華料理宴会場 お子様サロン
と書いてあり、一般的なデパートと全く遜色のない品揃えです。なお、これらの店舗のうち書店(岡本書店)、レコード店(ハナマタ楽器店)、セトモノ店(ヤマワセトモノ店)、眼鏡店(小川時計店)は現在でも1階部分(一部地下1階)で営業を続けています。
ちなみに店内の大食堂は東口駅前にある大衆食堂の「いづみや」が運営していました。
各階の移動には階段のほか、2階、3階にはエスカレーターが設置されていました。階段は現存するものと全く同じ場所にあると考えられますが、エスカレーターがフロアのどの部分に設置されていたかは映像から理解することはできません。
ちなみに、エスカレーターの幅は1人乗り仕様です。
店内の様子を一言でいえば、現在の中央デパート1階の雰囲気、と言ったほうが分かりやすいでしょうか。ガラスのショーケースに商品が展示され、メイドさん風の制服を着た店員がお客と対応している光景が映し出されています。
映像には岡本書店、雑貨店のモリタヤ、そして小川時計店(現・オガワ)などの店舗が紹介されています。
さらに新聞写真では地下食料品店の様子が紹介され、陳列ケースに並べられた果物や野菜を手に取るお客で賑わっている様子が映し出されています。
店内に大食堂や宴会場があることに改めて驚きを覚えますが、現在の老いたビルの姿や薄暗い地下道の姿を見るから想像が難しいだけで、デパートに大食堂があり、子供たちの遊具があるのは1960年代の水準では当たり前の話でした。
買い物へ行くだけでなく、家族みんなで食事や遊びに行く…当時のデパートが提供していたものは日常よりも少し上を行くライフスタイルであり、気軽に「上のライフスタイル」が手に入る空間であるデパートに人々は集まっていきました。
大一デパートは大宮界隈、いや埼玉県内で初めて「上位ライフスタイル提供の場」としての役割を担うことになったわけですが、商店街側は火災前の店舗の生まれ変わりとして気軽に利用されることを期待した面も当時の新聞記事からうかがえます。
外部資本を入れず、すべて地元商店で構成されたデパートのスタイルはその後、中山道を挟んだ先にも建てられます。それが現在の「中央デパート」で、オープンは1966年(昭和41年)12月です。
しかし、1960年代末期から駅前を取りまく状況が変わっていきます。
1967年(昭和42年)に大宮駅に民衆駅としてステーションビルが、1969年(昭和44年)11月に西武百貨店(現・西武ロフト)、1970年(昭和45年)11月に高島屋といった大手資本に由来したデパートが相次いでオープンすると、東京など有力店のテナントを並べ、より高級志向を前面に出したデパートが形成されていきます。
これにより埼玉県各地から大宮駅周辺への集客力は高くなりましたが、店舗間の競争も激化していきます。その結果、競争に追いつくことの難しかった大一デパートは「デパート」と名乗ることをやめてしまいました。
2階以降に店舗を構えていた各店は規模を縮小し1階と地下部分に移動していきます。上層階を他のテナントに貸し出すためです。1968年(昭和43年)10月の時点で3階部分に料理学校が開校していることから、デパートとして機能していた期間は10年も満たなかったと考えられます。
その後も数々のテナントが入退店を繰り返し、現在に至っているわけです。
数年前、時代を感じるビルを眺めて以来、この大一ビルの全貌を解き明かしてみたいと考えました。ビルを観察し、地下道を歩きながら「時の断片」を拾い集めていくうち、ビルの現代史が見えてきました。ここには高度経済成長時代における地方都市の歴史が凝縮されているのではないかと考えます。
大一ビルはかつてこの街が歩んできた「時間」と「風景」を記録し、今もなお街の風景を作り出しています。
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├昭和40年代の大宮市を覚えてる方
└昭和40年代の大宮市を覚えてる方 その2
→国際学院埼玉短期大学
└沿革
→埼玉県庁
└大規模小売店舗名簿市町村別店舗一覧
・埼玉新聞 1962.10.5日刊1面、1962.10.6日刊4面
・埼玉ニュース No.109 「大宮駅前に新商店街」 埼玉県報道文化課 1962
(彩の国ビジュアルプラザ・映像公開ライブラリー(川口市上青木)所蔵映像資料)
・「大宮銀座通り80年のあゆみ」 大宮銀座商店街協同組合 1974
・写真撮影/現地調査:2002年2月、2005年5月
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